ということで、行ってまいりました。
少々、マニアックな内容なので考古学に興味が無い方には厳しい内容でしょうね!
涌坂氏の報告
パネルディスカッション!
コーディネーターの豊原先生が懐かしく、終わった後声をかけました。
自分が高校1年生16歳の頃です。地元で行われた遺跡発掘の際に涌坂氏と豊原先生にはお世話になり、よくしてもらいました。
36年ぶりだというのに名前まで覚えてくれていて、こみ上げるものがありましたね!
時々、涌坂氏と豊原先生の間ではその後も自分の奇行?がよく話題、酒の肴になっていたということです。
講演が終了後、郷土資料館での説明会!
今、現在館長である天方氏の説明!
自分が考古の世界に魅入られたのは小学生になってから・・・・。
しかしそれ以前に、祖父が自分同様の趣味(鉱物、化石、動物標本)があり、床の間にアイヌの宝と称して様々な土器石器が陳列されていたことです。
まだ幼いころからそれらを見ていたのが、その後の自分に大きな影響があったのは否めません!
小学4年生、当時は国道拡幅のためにあちらこちらで工事が始まりました。
近所の農家では農地を広げるために大規模な伐採と開墾!
剥き出しになったその場所には土器や石器が無造作に転がっていたのです。
無我夢中で拾い集めました。
小4とはいえ、採集場所や日時、状況等は細かく記録することが大事だということをすでに心得ていたので部屋はたちまち宝の山!
幼かった自分は拾い集めた土器や石器などを夏休みの自由研究などで発表に利用したもので当時の先生たちからも絶賛されたのを覚えています。
自分の夢は考古学者!
そのためにどうすればよいか、当時の担任だった臼井氏(中標津計根別中学校校長を最後に退職)に真剣に相談したものです。
(退職前にお会いした時、これから書く事件について再度、我々教師も至らなかったと謝られました。・・・迷惑をかけたのはこちらなんですが)
昭和40年、50年代初期は開発に伴い、遺跡を保護するということなどは阿呆のすることでした!
当然、学芸員すら存在しないわけで、涌坂氏が着任したのは自分が中学1年生の頃です。
やがて中学1年生の夏、悲しいかな知識不足が自分の将来の夢を打ち砕きます。
ある日、同じように国道の拡幅に伴い将来的に抉り取られて消えてしまうと思われた遺跡について行動を起こしました。
既に数か所の竪穴式住居は消え、あるいは部分的に削り取られていました。
かき集め、竪穴にスコップを刺していた時です。
羅臼町教育委員会の職員らが巡回に来たのです。
凄い剣幕で怒られました。怒られている意味も分からず、土地の所有者には許可を得ているにもかかわらずです。
いわゆる盗掘(埋蔵文化財保護法違反)ということでした。
問題は学校へ行き、校長も呼び出され大事に!
その時、初めて埋蔵文化財保護法というものがあることを先生方も始め自分も知りました。
今は亡くなられた若かりし頃の池田栄寿教育長が『おお~、タヌキ居た!このタヌキ野郎!どこの学校だ!何やっているのかわかっているのかてめぇ~!』しっかりと耳に焼き付いています。
その日を境に自分の中の考古学に対する夢が急速に萎んでいきました。
あの日、あの事件が無ければきっと・・・・漁師はやっていなかったと思います。
その後も個人的にまだ羅臼町が把握していない遺跡など自分で見つけてはいましたが、既にどうこうする意欲は無く自分の中に!
そのために住宅建設、農地開発などで消えてしまった遺跡もあります。
上の記事でも書きましたが、その時の自分の行いに対する自虐史観から長い間抜け出せずにいました。
今年の6月、席上で涌坂氏から当時のことについていろいろと言葉をいただき、ようやく呪縛から解き放たれ、今回もう一人の豊原宣氏と会い40年余りの歳月にピリオドを打つことが出来ました。
自分は結局、考古学者の夢はあきらめましたが今は近所に住む涌坂氏の後継者である天方氏へこれからも協力して行きたいと思っています。
人生は人と人の出会いで大きく変わるものだなとつくづく思います