これから書くことは、自分が高校を卒業した年に起こった事件です。
当時は今ほど羆がやたらと人家のそばをウロウロはしていない時代です。
まだ、春熊駆除も行われていたわけで羆の警戒心も強かった中で起こった事件ですが、食べ物に対する執着心の恐ろしさを強く印象付けた事件でもありました。
昭和57年、秋のことです。
隣町、標津町古多糠で起こった事件で当時は一般的であった(違法性があったかどうかはわからない)死亡牛の農地敷地内への埋設がきっかけだったように標津農協職員からお聞きしていました。
最初に育成中の子牛が襲われました。
10月27日日没から28日早朝にかけての出来事です。
道東にお住まいの方なら見たことがあると思いますが、子牛をよくベニヤ板などで囲った小屋(大きな犬小屋みたいなやつ)で飼育する風景、それを狙いました。
一度味を占めたら何度でも通います。そして狡猾で素早く、人をあざ笑うかのように持ち去りました。
これ以上の被害を出さないように、また、もはや人を恐れなくなった羆に取るべきことは一つですが、檻という物自体が無かったのか、熊が狡猾すぎて用を成さなかったのかはわかりません!
恐怖の命がけ、巻き狩り作戦です。
当時、ハンターばかりではなく友人だった農協職員も駆り出されました。
心底恐ろしかったそうです。
バケツを鳴らし、大声を張り上げ、見通しの利かない、潜んでいると思われる藪へと入っていくわけです。
すぐ傍にもハンターが居るとは言っても生きた心地がしなかったそうです。
そして、熊はハンターの前へと現れ、一連の騒動に幕が下ろされました。
正確に計測されたとは思えませんが、でかいことは確かです。
成長期に餌に恵まれれば、大きくなることはどの生物でも同じこと!
きちんとした記録が残らなかったことがとても残念です。
そして記事の最終にもあるように事件は続くわけです。
また同じ方の牛が襲われました!
近隣住民、お子さんや女性は生きた心地がしなかったでしょうね!
再度の作戦決行に知り合いの農協職員は出発前に生命保険の確認(死亡保険金)の確認をしておくように新妻に言って出てきたと言っていました。
ぎりぎりまで人間を引き付けて背後に回ることもあるわけで、背丈ほどもある笹藪、雑木林の中、冷汗で喉がカラカラになったそうな!
そして、勝負がつきました。
300kgでも十分にデカいです。
友人曰く、もう2度と勢子をやりたくない、今度あったら仮病使うと言っていたのを思い出しました。
当時の事件の詳細を地元紙である(有)総合企画(中標津町)が発行する『月刊新根室』という冊子に掲載されていますのでご紹介します。
(転載については許可を得ています)
当時は今と違い農家の方には銃所持者が多かったのですが、理由は獣害から家畜を守るため!(現在は牧草地を守るために所持される方が多いですね)
都会に住まわれていると野生動物の脅威を身近に感じろ!とは無理な話かもしれません、ですが一方的に人が悪いでは無く自らに置き換えて理解する努力をしてください。
熊の生息域に人が移り住んだからだとか言うのならば、日本全土、アジア圏、北米に至るまで人が住むことは許されないはずです。
昨今のマスメディアは事実をありのままに正確に伝えるのではなく、いかに注目を浴び、視聴率、購買率を上げるか!そのための偏った報道になっていると思います。
無論、その原因を作ったのも我々なのかもしれませんが
無論だからと言ってやたらと殺してしまえば良いとは思いません!