注:『月刊新根室』㈲総合企画様のご協力をいただいて記事にしています。
昭和60年、4月のことです。
この頃自分は21歳、まだ青い頃?ですが叔父たちが鉄砲撃ちだったこともあり銃も身近であり(法的に触れることがたっぷりあり書けない)春熊駆除もごく普通の身近な春の風物詩でした。
そんな中、春日町の高嶋さんの事件は起こりました。
『クマ撃ちに行ったまま帰ってこない』
『何かあった』
当時は今とは違い、スケソウ漁が全盛で4月はほとんどの船が懐の温かさから休漁していました。(流氷の影響もあったけれど無理をしないということで)
漁業者の鉄砲撃ちも多かったので知床の山はハンターだらけでした。
昨今はあちらこちらに熊が普通に居ますが当時は追い詰められ絶滅寸前とまで言われるほど少なくなり、知床の山には他地区からも大勢のハンターが来ていたのです。
4月22日、単独でクマ猟に向かった高嶋さんが翌朝仲間のハンターの捜索で遺体となって発見されました。
羅臼で起こった最初の(記録上)羆による死亡事故です。
このあたりは羆の巣と言っても良いほどの場所だそうで、今年も昨年も3月のエゾ鹿有害駆除中にヒグマが出ています。
不幸にして亡くなられたわけですが、事故の詳細を当時の地域総合誌であった㈲総合企画(中標津町)さんが『月刊新根室』という冊子の中で詳しく述べておられ、投稿画像の容量制限の関係でこれから数回に分けて紹介して行きたいと思います。
つづく